History

平岩 快都 F1ドライバーワールドチャンピオンへのステップ


『子守唄はマシンのエンジン音』


 平岩快都は、2001年7月14日に名古屋に誕生する。
 アイルトン・セナの生き様に共感し、「F1という世界で自分を表現する人間になってほしい」という父の意志のもと、生まれた時から車に囲まれた環境が与えられ、F1レーサーになるための育成が始められた。
 家の中では一日中、レースのDVDが流れ、マシンのエンジン音が彼にとっての子守唄だった。

『4歳カートの世界へ 早くレースに出たい!』

 いよいよ4歳の時に本物のレーシングカートのステアリングを握り始める。
 F1ドライバーになるためには小さな頃からスピードに慣れる必要があり、その入門クラスと言えるのがレーシングカートである。アイルトン・セナ、ミハエル・シューマッハ、小林可夢偉など、著名レーサーの多くがここからキャリアをスタートしている。
 スクールで基礎を習い、本格的にコース練習が始まった。毎週サーキットに出かけ、来る日も来る日も練習に励んだ。自分より歳上の子供たちが走るカートレースを間近に見ると、「僕も早くレースに出たい!!!」という思いが強まり、ますます練習に熱が入った。時間のある限りステアリングを握り、家に帰っては録画した自分の走りを何度も見直し、次の日もまたサーキットで走るという生活だった。


『小さなからだでスピードと戦う毎日』

 レース参戦を見据え、技術向上のためには多くのサーキットを経験しておく必要がある。 北は東北、西は中国地方まで、毎週父親の運転するハイエースに乗り込み、家族で日本中を飛び回るようになる。 サーキットに慣れるためには走り込みが必要となるが、限られた時間内で練習をしなければならない。 名古屋に帰る時間も惜しいため、その地に何日か留まった。 朝6時からサーキットのピットガレージでマシンをセットアップし、コースが閉まるギリギリの時間まで走り込みを重ねた。
 冬場は身が凍てつくような寒さの中、ステアリングを握った。感覚を失った小さな手のひらの血豆が何度もはじけ、グローブを赤く染めた。
 子供用のカートと言えど、100ccのレースエンジンは14,000回転まで一気に吹き上がる。体感スピードは250kmに達し、コーナーで首にかかる重力は150kgにも及ぶ。集中力をなくした一瞬の判断ミスで制動を失い、マシンごと宙を舞ってコース脇の茂みにはじき飛ばされる事もあった。未完成な幼い体にはあまりにも過酷だった。
 厳しい父の指導の元、時にはへこたれ、涙を流した事もあったが、歯をくいしばりこれでもか、これでもかというくらい徹底してコースを走り込んだ。1000分の1秒を競う勝負の世界。そこで戦うために。


『7歳 待ちに待ったレースデビュー』

 2008年夏、瑞浪レイクウェイサーキットで念願の公式レースのデビューを果たした。
 大好きなミハエルを真似た真っ赤なヘルメットにKAITOの文字を刻み、スターティンググリッドに立つ。
 息もできないような緊張感に包まれる。年上レーサーに揉まれながらも初めての真剣勝負を完走で終えた。その後各地で行われた10レースに参戦し、優勝するために必要な経験値を高めていく。

『試練の一年』

 翌2009年には2つのシリーズを含め、30を超えるレースに参戦を果たした。
 年上のレーサーとほぼ同じスピードを身につけていたが、優勝を手にすることができず、いつも2位・3位という結果に表彰台では悔し涙が頬をつたった。表彰台の一番上に立ちたい。彼は勝つためにどうすれば良いか考えた。何が足りないのか?彼はひたすら練習に打ち込んだ。そして前を行く年上レーサー達に挑んだ。雨のレースや最終戦間際には優勝争いをするまでに成長していった。

『念願のチェッカーフラッグ』



 年末、最後にスポット参戦した石野サーキットで、ほぼパーフェクトなレース展開をすることができた。ポールポジションからスタートし、終盤までポジションをキープ。
 最終コーナーも余力を残して駆け抜けた。そして念願のチェッカーフラッグ!!
 それまで苦しみ、もがいていた中で、確実に実力をつけてきた結果だった。これまで一緒に走り続けてきた家族とともに念願の初優勝を喜びあった。
 年間を通しては、2つのシリーズ共にランキング3位であった。年齢のことを考えれば十分であったが、「1番でないと意味がない!」と、その結果に満足はしていなかった。
 もともと1番にこだわる父の「勝負とは勝つために向かってゆくものだ。勝負は、負けの要素を無くせば、必然的に勝つ事ができるんだ。」という教えと、ある一人のレーサーに"勝負"の哲学を重ね合わせる。F1界の皇帝ミハエル・シューマッハ。「ミハエルのようなスーパースターに必ずなる!!」幼い時の憧れは人生の目標に変わっていた。そして前にも増して勝負にこだわるようになっていく。


『快進撃と家族のサポート』

 2010年、目標を掲げた。「岐阜・三重・静岡の3つのサーキットのシリーズ戦において全て優勝し、シリーズチャンピオンを獲る。そして全国大会で優勝する」それは、今まで誰も成し遂げられなかった高い目標だった。
 だが彼は、自分に課した公約通り開幕戦から優勝を果たす。そして、参戦するレース全てで勝ち続けてゆく。
 前年の初優勝を機に勝つための方程式をしっかりとつかんでいた。いつしか全国のレーサーから「打倒 快都」と目される程の強いレーサーに成長していた。
 「カート界の絶対王者」「向かうところ敵なし」「勝って当たり前のレーサー」そんなフレーズが彼のまわりで踊り始めた。
 賞賛の言葉であると同時に、それは常に一番を守り続けなければならないという重圧でもあった。
 シリーズチャンピオンを確実なものにするためには、走り込みと同時に、彼の特性に合った勝てるマシンの精度を高めていかなければならない。
 マシンの構成はほとんど消耗品のため、レースの度に200万円強の資金が必要になり、年間通じてシリーズ参戦すると、一軒家が建てられるほどの金額になっていた。父は長年築いてきた事業の一部を譲るなどして資金を工面した。勝つためには時間もお金も惜しまなかった。
 「チーム快都」という名はあるものの、その実体は父親自らが監督、メカニックなど全てをこなす素人チーム。それでもプロのカートチームを相手に勝負をしてゆく。情熱と勝利に対する執念だけは、誰にも負けなかった。

 快進撃を続ける中、トップチェッカーを受けながら、表彰式の間際に「失格」の裁定が下された事があった。
 コントロールタワーで説明を受けた彼は泣きじゃくって戻ってきた。その内容は、全く納得できない不可解な裁定だったのだ。父は彼とともにコントロールタワーに駆け上がった。失格の理由をあいまいに説明する審判達に父は激怒した。父は「もうレースに出るのは辞めよう」とさえ言った。その後、家族で何度も今後のレース活動について話し合いを重ねた。
 その時8歳の彼が口にしたのは「決めた目標を譲りたくない。絶対にチャンピオンを獲る。走り続けたい。」という言葉だった。その後も走るたびに、目の前に立ちはだかる様々な出来事があった。ふるいにかけられる度に走りは強さを増し、残りのレースに勝ち続け、3つのシリーズチャンピオンに輝いた。

『8歳で全国チャンピオン』


 2010年11月6日・7日、この年の最大で最後の目標「第34回 TOYOTA SL全国大会チャンピオンレース」を迎える。YAMAHA Cadet Class 8歳12歳のカテゴリーで各地のシリーズチャンピオン達が集結し日本一を決めるレース。
 8歳ながら、年上レーサー達を相手に「タイムトライアル」「予選ヒート」「決勝ヒート」のすべてで圧倒的なレース展開をし、見事全国チャンピオンに輝いた。
 ライセンス手帳の歴代チャンピオンリスト(F1ドライバーまで上り詰めた鈴木亜久里、高木虎ノ介、小林可夢偉といった著名ドライバーの名が掲載されている)に平岩快都の名を刻んだ。
 この一年、雨の日も風の日も暑い日も寒い日も走り続け、汗と涙を流して、掲げた目標を達成し、F1レーサーへの階段をひとつのぼった事を実感する瞬間でもあった。そして遠方から応援に来てくださった方々や、今までサポートしてくださった皆様への感謝の気持ちでいっぱいだった。

『2011年 先を見据えた体制づくり』

 8歳で全国チャンピオンを獲ったことにより、2011年の快都の動向にすべてのチームが注目した。シャシー、パーツメーカーからのサポート提案も数多くあった。
 日本国内だけでのレースを考えれば、現状で何も問題はなく、2年連続の全国チャンピオンを目指せばよかった。だが、世界に向かっていくには、チームの資金的な体制が不十分。何年か先を考えると途切れてしまう可能性があり、せっかくのキャリアを無駄にしてしまう。次のカテゴリーを経て、更にF1のワールドチャンピオンに上り詰めるには、莫大な資金が必要になるため、今は走りたい気持ちを抑え、不本意ながらレース休戦の道を選んだ。そして家族とともに資金を集め、しっかりしたサポート体制の構築に集中することにした。
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